昭和40年06月11日 夜の御理解



 「力」を受けるための信心

 例えば五十斤しか持てない人に、六十斤持たしたら、もうそれは大変な難儀である。けれども、百斤持てる人にその六十斤を持たしたら、平気なまだ後四十斤ぐらい持ってやってもいいと言う具合になる。そうでしょうが。ね。例えば百斤の重い難儀というものを、持っておる人がです。二百斤の物を持てる力を頂いたら、それはもう難儀ではない、一つも、持ち荷にもならない、重たいとも思わない、苦しいとも思わない。
 けれども、実力八十斤しか持てない人が、百斤持つところに、青息吐息、いわゆる途端の苦しみを味あわなければならんのである。だから信心とはね、その力を頂く事なんだ。ね。百斤持てれる、それが段々おかげを頂きよったら、百二十斤の実力がついた、二百斤も持てぬ者が、いわゆる千斤でも万斤でもと、いうような力を頂かしてもらう時に、そこには、その人の前には、いわば千斤以下の、千斤持てる力を頂いたら、千斤以下の事は、もう難儀ではないということ。ね。
 今日御神前に出らせて頂いたらね、あのバケツにこう水を入れてね、吊りこう提げてはないのです。お水がいっぱい入ってる。それをこう両方の手でこうやって持って、行きよるところを頂いた。ね。あれをいわばこのついたら、手がついたら片一方の手でも持てれるですね、いうならそしたらまた、片一方のほうにも何か持てれるんだけども、ついてはないもんだから、その、そのバケツの水は両方の手で、あ、こう持ちにくそうにして、持っておるところを頂いた。
 あたくし共は、そのう次どのようにあったらおかげを頂けるかというような道だけは、皆が稽古をする。覚えておる知っておる。例えばついてもついても、手のつき方は知っておるけれども、肝心要のその重い物を持つ力がない、そんな気がするね、あたくしは信心だけは覚えても、まそのちょっとした難儀があると、そこは理屈の上では分かっておるけれども、それをやはり難儀と感じるのである。そして耐えられないのである。そしてそこから逃れようとするのである。
 だからあたくしはその手をつけるという事、ね、例えばこのタオルの頭でもそうでしょうが、かなしの中に入れてからきちっと荷造りをしたのなら、かたぎよいのである。けれどもあれは、とりあえずここに、こうだらっとそこに入とったら、かたごうにもかたぎようがないでしょうが、だからそれはその荷造りの方法とか、手を付ける事は子供すら間違えんのである。子供すら楽だと、いったような事を知っておるんだけれども、その肝心要の持つ力がない。
 お互いがその力を頂かなければ駄目、ね、まず私は力を頂かなければならん。あたくし共がその力の頂けれる、例えば問題を出された時にです。その問題から回避しようとする。逃れようとする。それではいつまで経っても力は付かん、ね、まず力を頂く為には、どういう信心をさして頂いたなら良いかと。ね。例えばよく昔の信者さん方の中には、その力の強い人があったですね。
 最近あたくし、ある教会の総代さんの、年上の総代さんから聞かせて頂いたんですけれども、昔の先生、初代の先生、そげなこといっちょん言いなさらんかった,、最近の先生は、もう御取次、御取次ばっかり言うてから、昔の先生方は、あげなこといっちょん言われなかったが、おかげはどんどん頂きよった、と云う訳です。ね。あたし共も、もうほんとに、ようおかげを頂いたと、こういうわけでございます。
 よう道は大して知ってないけども、神様を信ずる力においては強かった。おかげを頂いた。ああして百斤を青息吐息しているのに。百五十斤持てる力持っておるんだから、で、そのう、一つも難儀とも感じなかったし、人の分まで持っておるような、その芸当もでけた。御取次を頂いてばかり言うたって、それでなら難儀が楽になるということじゃない。うん。お取次にはお取次のその、いわば道だけ覚えただけではです。
 何にもならんということ、ね、お互いがです。神様が力を付けてくださろうとする働き、自然の中に、成り行きの中に、様々な問題がその人に、丁度相応しい、適当な、ね、力を付けて下さろうとする働きを働きと、私共は、悟らしてもろうて、はあ、これによって、ひと力受けるぞと、これによって、このくらいな物は楽に持てれる、私になろうという願い、そういう意欲。そこから、精進があり、修行がある。ね。
 そういうようなあたくし共に、まず力を受けるということにね、焦点を置かしてもろうて、今私が申しましたように、はあ、今自分が持っておる百斤の難儀がです。自分の百五十斤の、持てれる力をでけたら、楽な事であろうけれども、肝心要の力がないところに、難儀を難儀としている事を分からせてもろうて、ね。いかにしたら、その力が頂けれるかと、うん、あたくしはどうでも、神様を信じる力というものをです。ね。
 いよいよ強くしていくために、まず、神様に信じられる、氏子になることを本気になることだと、私は思う、『神を信ずる氏子は多いけれども 神から信じられる氏子が少ない』と仰る。ですから、どういうような、自分の心の状態にならして頂いたら、それはどういうような、自分の生き方、あり方にならして頂いたら、神様の御神愛を頂けるかというところに、焦点を置かしてもらう時に、教えは、その事ばかりを説いてある、と言うても過言ではない。
 神様に好かれる道なのだ、神様に信用される道なんだ、その道を歩かずして力のつくはずがない。そこに、ね、神信心のところからです。神様の生き生きした働きを目の当たりに、感じたり、見たり、頂けたりするのである。神様を信じる力が付く。ね。そこで、人が、「さあ、どうしようか」と言うて、あわてておる時でも、「それは心配要らんよ」と言う事になって来るのである。
 今朝から、久留米の田村さんがお礼に出て見えてから、「先生もうほんとに困ったことが起こりました」と言う。「どうしたの?」と言うたら「それがあんた二、三日前安藤さんがここにあの、お参りに見えましたでしょう」ちゅうた。昔のその会社とのでの友達なんでしょうね。「そういや三日前参ってきましたよ」 それがあとここの帰りにあたしの方へ寄らせて頂いて、ウイスキーをまあその1本下げて来たらしいです。福岡からもう好きですから、で参って来とったんですよね。
 それがもう昼から呑みなさんなって言うけども、さあ田村さんも好きなもんだから、二人でウィスキー1本空けてしもたわけです。それでも自分は横になってうとうとしている内に、安藤さんも酔っ払ってしもうた、まあぐでんぐでんまで飲んだらあかんとか言いよったけれども、もう様子を聞いているとです。奥さんが止めるのも振り切って、又,乗って帰ったとそれっきり、消息を絶ってしまっておるわけなんです。ね。
 あちらから電話が掛かってくる、昨日一昨日は嘉朗さんと、の由紀子さんと二人でやって来てからずうっとその、どっか突っ込んでおらんじゃろうかと思て、田村さんも探して回られる、嘉朗さんも夫婦で回ったらしい。それがあんた昨日なんだから、先生どうしますか、これはもうほんとに、あたくしの方へ来て「あたしはえらい悪い」ちゅうわけです。だから安藤さんも安藤さんですたいね、帰ってきたそうです、昨日それでドアも開けきらんとですもん。
 丁度昨日あたくしが、ここを下がろうとしておるところでした。11時頃でした。奥さんが、それこそ涙流してから、お伺いに参りました。「安藤はこんな訳で帰って参りません」と、安藤さんの奥さんの兄さんが、去年一昨年、やっぱりそういうふうに行方不明になってから、山の中で亡くなってられたんですよ。まそうそのような事もあるもんだから、やっぱりいろいろな事が有るとです、いろんな事が有ると最悪の場合を感じるんですね、やはり最近の商売が思わしくいかん、行き詰まっておる。
 それで、「俺は樺目へお参りするぞ」と言うて参った。そして電話をかけてみると、もうその、あらゆるあっちどこにでも寄ってる寄ってるらしいですね。だからまあどこにでも寄ったり、一遍でもお別れに行ったんじゃろ、ちゅうな考え方しておるわけなんです。ね。そして椛目にお参りをさして頂いて、田村さん所に寄って、田村さん所でウイスキー一本飲んでぐでんぐでんになってから、そのまま振り捨てて出て行ったきり、消息を絶ったちゅうこと、やっぱちょっと心配になることですわな、
 三日間も帰って来んち言うのは、その事を安藤さんが奥さんが昨日もですね。「先生ほんとにあのあのような結果になって、もうそんならそれで覚悟致しますから、本当の事を教えて下さい」と云うわけなんですよ。それで私神様へお願いさして頂いた。それで私が安藤さんに申しました「あんね安心できるようにお願いさせて頂こう」と私帰らせて頂いた。2時間したら帰ってきたんです。帰ってから2時間したら帰ってきた。
 あたくしそれはどういうふうで帰ってきたかまだ聞いてない。それは夕べ嘉朗さんが参って来てそのお届けをするんですけどね。それこそもうほんとに、先日奥様もあげな風な自分の、もう身をちじめてもです、助けて頂きたいという願いを持っとったんだけど、さあ実際、無事に帰ってきたらお礼参りも、よう出来んのです。こういうところを一つお互い、信心さして頂く者は、おかげ頂かにゃいけんと思ったね。
 そげな事じゃあ、今日あたしが言う力は受けられませんね。あたしがならどうして安心の出来るようにお届けを、安心が出来るように、まあそのうお願いをしとこうと言うたかというとですね。神様が、ね、どっちから見ても安心ということだった。あたしは御取次ぎさして頂いとるあなた方は御承知のように、いつもうちのこのお届け帳はもう実に神ながらなんだ。安藤末男とゆうお届けの両端にね、内田泰雄と池尻泰子が、お届けその真ん中に、丁度安藤末男さんがお届けになるような具合になっとった。
 泰雄、泰子という字は、安泰の「泰」という字なんです。ね、だからこれは大丈夫だと私は思うた。だからあたしが安心し、「とりあえず安心できるような願いをさして頂こう」と言うたら、もうそれこそ「はあきっと、おかげになる」とこう感じたらしいね、日頃の事が分かっておるもんだから。そして安心して帰らして頂いた、2時間後に帰って来たという、おかげを頂いておるということ、ね、
 これなんかはいうなら例えばあたくしにです。神様があたくしを信用してござるから、ね、あたしに神様がそれをお知らせに下さる。だからあたしは、例えばもうほんとに、どうしようか、と、田村さんの話を聞いても、安藤さんの話を聞いても、本当に前に起こったような事が、ここに起こったらどうしょうかという不安、ある段じゃなくて、それを平気でおれるということは、いうなら持ち荷を持ち荷を持てるような、難儀な問題をあたくしは平気で持っておるということになったでしょう。ね。
 「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」と、神様から信じられるところの氏子、信者にならせて頂かなければです。本当の安心の生活というのができない。安心の生活というのは、神様を信ずる故に、心を、心が安らかな平常心をいつも保つ事が出来るのである。ね。例えばチキリを、十斤がかえもの十斤がかえのチキリを持っておる。それを十一斤乗せたらダーンと上がってしまうのである。ね。
 チキリがこまいまちっと大きくならにゃいかん、ね、十斤がかえでも良いからです、ね、ちょっと重みをかけるとです。日頃分かっておる事でも十斤がかえの物に十斤の物を持たせてもです。上がってしまうようなことがあるでしょう。分銅がどこさか行っとる。分銅をちょっと十斤のとこにちょっとこう押し寄せたら、平常のおかげを頂けるのに、ね、その「金光様」と言うそのそん時は忘れてしもうてから、十斤なら十斤ところを合わせれば、自分のこう平常に並びにそれをしないところに心の中が乱れてくる。
 心が乱れておったり不安であったり、ね、しておったんでは心が真っ暗になっておったんでは、おかげは受けられない。平生な心、安心したその心の上におかげというものは頂けるのである。ね。どちらにしてもです。お互いがこう、一つの百斤なら百斤のものを持つでも、荷造りをしてこう、縄をかければ持ちよいということが分かっただけではでけん。百斤のその俵その物をです。持てれる力をまず頂くこと。
 その上に、も、子供すら持ちよかけんと、手を付けたり、荷造りの方法を覚えさして頂くところに、百斤しか持てんもんでも、百十斤ぐらい持てれるようになるのである。段々力が付いて、百五十斤持てれるようになる。二百斤持てれるように段々力が付いてくる。そこんところに、信心は楽しみはあるのです。力が付いていくこと、楽しみの信心にならして頂かにゃいかんですね。
   おかげを頂けますように。